異邦人―同窓会で感じた違和感

同窓会
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同窓会―中高一貫校への変化と短期大学の記憶

6月17日(日)、コロナ禍から3年ぶりに高校の同窓会が開かれました。

1期~53期が一堂に集う同窓会です。もっとも、1期生は人数が少ないこともあり、今まで見たことがありません。昭和42年に、生徒・教職員ともに10数名で発足した学校なのです。青森の学園が創立30周年を迎える年に、姉妹校として浦和に開校したと聞いています。

入学試験の思い出

私は、所沢中学校(公立校)から浦和明の星女子高等学校(私立校)に進学した最初の生徒でした。推薦入学でしたが、30人の枠に約180人が応募したため、入学試験が行われました。

その日は前日に雪が降ったせいで、路面が凍っていました。西武池袋線の秋津駅から武蔵野線の新秋津駅に乗換えの時、母が突然足を滑らせて尻もちをつき、V字の形に脚を立てたまま、駅員さんのいる改札口まで滑って行ってしまいました。

(日本では)入学試験において「滑る」「落ちる」は不吉なことです。私は母に思いっきり悪態をつきながら試験会場に向ったのを覚えています。

高校で感じたカルチャーショック

学園のキャンパスや校内は、塵一つ落ちていないほど掃除が行き届いていました。トイレには、赤いタオルがかけてあって、カルチャーショックを受けました。当時の所沢中学校とはかなり違っていたからです。

そして音楽の歌の試験の時、『二人一組になって、お互いに相手の伴奏をするように』と先生が言いました。私は目の前が真っ暗になりました。伴奏ができないのは私だけだったからです。

クラスのほとんどの人たちは、2~3歳の頃からピアノを習っていて、絶対音感のある人もいました。同級生のМさんが、ライブコンサートで録音してきた曲を聴きながら、楽譜に起している姿を何度か目撃したことがあります。

皆それをごく普通のことと感じているようでした。

カナダ人のペンパルに影響されたこと

教育母体の本部はカナダにあるので、私が入学した頃は高校1年で英語とフランス語が必修科目でした。高校2年からは選択科目になったので英語を選びました。けれど、1年の時に学校で紹介されたカナダ人のペンパルは完全なバイリンガルでした。彼女に影響されて、付属の短大はフランス語科に進みました。

ペンパルは私より3歳年上の女性で、手紙のやり取りを始めてすぐに、メディカルカレッジに入学しました。ドクターの国際ライセンスを取ったら日本に行くと言っていたのに、文通は約3年で終了しました。原因は主に私にありました。

熱中勉学時代

短大では毎日6時間ほどフランス語を使っていました。それに比べて英語は週1回2時間だけの生活になりました。それで、どんどん英語が書けなくなっていったのです。かといって、フランス語で手紙を出す力はまだありませんでした。それで、ついに返事が出せなくなったのです。

短大では、学内で日本人の先生に遇ったら日本語であいさつ英語科のカナダ人の先生に遇ったら英語であいさつフランス語科のカナダ人の先生に遇ったらフランス語であいさつするというルールがありましたが、卒業する頃には、日本語もなかなか出てこなくなって焦りました。

それくらいフランス語にどっぷりつかった生活でした。純粋に学ぶことが楽しい日々でした。卒業生も利用できる図書館のカードもあってうれしかったです。

中高一貫校に変わって20年

ところが、2003年3月に短大は廃校になり、2003年4月からは中高一貫校としてスタートすることになりました。

中高一貫校になってから、今年で20年が経つので、37期以降は中学受験で入った人たちになります。登壇する先生方も知らない人ばかりです。今年の同窓会はまるで雰囲気が違う、まさに「異邦人」になった気分でした。

コロナ前はまだそうは感じませんでした。私が教わったことのある現代国語の先生のロッカーを見つけて、びっくりしたのを覚えています。

ほんの数年で、こんなに変わってしまうものなのでしょうか?もしかすると突然ではないのかもしれません。20年かけて少しずつ変わってきたものを今年はっきりと認識しただけなのかもしれません。

環境の違いが生み出す心理的距離

帰りは、高校時代に器楽部で一緒だった同級生のYさんと、お蕎麦屋さんに寄って遅いランチを食べました。Yさんは、同窓会で出たサンドイッチを食べたのでおなかがすいていないと言って、お酒を飲みました。これも今までになかったことです。彼女にお酒を飲むイメージはありませんでした。

私は同窓会に遅れて参加したので、サンドイッチを食べる場所がなく持ち帰ることにしました。お蕎麦屋さんは、Yさんと私が高校に通っていたころはなかったお店です。15年前にできた老舗なのだそうです。Yさんはすっかり酔ってしまっていましたが、反対方向の電車に乗ると言うので駅で別れました。

住むところも日常生活も何もかも違ってしまった友達。22歳の時、大宮(埼玉県)市内の路上でバッタリ会ったことがあります。私は短大卒で働いていて、結婚をした頃でした。Yさんは4年制大学を卒業して、学校の先生として働いていました。キラキラ輝いていました。

ところが、学校の先生は10年ほどで辞めてしまい、今はボランティアで東京シティーガイドの仕事をしているそうです。彼女は歴史に詳しくて、去年は熊谷の「妻沼聖天山(めぬましょうてんざん)」に来ました。

来年の今頃はお互い何をしているのでしょうか?また同窓会に来るのでしょうか?

 

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